量子世界の入り口 - 波動と粒子

身の回りのものが波に見えない理由:量子とマクロな世界の違い

Tags: 量子力学, 波動と粒子, 物質波, プランク定数, スケール

量子世界の不思議な二重性と私たちの日常

これまでの記事で、光や電子といった非常に小さな存在が、波と粒子の両方の性質を併せ持つ「二重性」を示していることをご紹介しました。水面に広がる波のように振る舞うかと思えば、ビリヤードのボールのようにぶつかる粒子の性質も持っている、という非常に不思議な性質です。

この話を聞くと、もしかしたら「じゃあ、私の周りにあるもの、例えば私が投げたボールとか、この机とか、この建物とかも波の性質を持っているの?」という疑問が浮かんでくるかもしれません。しかし、私たちは日常生活の中で、ボールが波のように広がったり、机が波打ったりするのを見たことはありません。

なぜ、量子世界では波と粒子の二重性がはっきりと現れるのに、私たちの身の回りにある大きな物体では、粒子の性質(質量があり、決まった場所に存在する)しか感じられないのでしょうか。今回は、この素朴な疑問について考えてみたいと思います。

すべてのものに「物質波」はある?

量子力学の世界では、ド・ブロイという物理学者が「運動しているすべての物質には、それに付随する波(物質波)がある」という考え方を提唱しました。光が波と粒子の二重性を持つように、電子のような粒子だけでなく、原理的には野球ボールも、自動車も、そしてあなた自身も、運動しているときには波としての性質を持っている、という大胆なアイデアです。

この考え方によれば、物質が持つ波としての性質は、その物体の運動量(質量と速度を掛け合わせたもの)に関係しています。具体的には、運動量が大きいものほど、それに付随する波の波長が短くなる、と考えられています。イメージとしては、力強く速く動いているものほど、より細かく、ギュッと縮まったような波になる、といった感じです。

量子と日常を隔てる「プランク定数」

物質の波動性を考える上で、非常に重要な役割を果たすのが「プランク定数」と呼ばれる物理定数です。これはアルファベットの「h」で表される値で、量子力学の様々な現象に関わる、いわば「量子世界のルールブック」のようなものです。

このプランク定数、具体的にどのような値かというと、約6.626 × 10^-34(ジュール秒)という、非常に非常に小さな値です。どれくらい小さいかというと、例えば1グラムの1兆分の1の、さらに1兆分の1よりも小さい、といった、私たちの日常感覚では想像もつかないほど小さな数です。

ド・ブロイの考えた物質波の波長は、このプランク定数を物体の運動量で割った値に比例します。つまり、

波長 ∝ プランク定数 ÷ 運動量

という関係になります(正確には少し違いますが、概念としてはこの比例関係を理解してください)。

身の回りのものが波に見えない理由

さて、ここで先ほどの疑問に戻りましょう。なぜ、野球ボールは波に見えないのでしょうか。

野球ボールのような、私たちの身の回りにある物体は、電子などに比べて非常に大きな質量を持っています。たとえゆっくり投げたとしても、その質量が大きいため、運動量(質量 × 速度)も量子世界の粒子と比べると圧倒的に大きくなります。

そして、波長はプランク定数を運動量で割った値に比例する、という関係がありました。プランク定数自体が非常に小さい上、さらに巨大な運動量で割られることになります。その結果、野球ボールに付随する物質波の波長は、想像を絶するほど短くなってしまうのです。

どれくらい短いかというと、原子の大きさ(10^-10メートル程度)よりもはるかに、はるかに短い波長になります。これほど短い波長の波を検出したり、その波としての性質(例えば干渉縞など)を観測したりすることは、現在の技術では不可能であり、また私たちの目や日常的な測定器の分解能をはるかに超えています。例えるなら、非常に短い波長の電磁波(例えばX線やガンマ線)が、可視光線のように私たちの目には見えないのと似ています。波は存在しても、それを捉える手段やスケールが違うため、私たちは波として認識できないのです。

ミクロな世界で波動性が見える理由

一方で、電子のような非常に軽い粒子の場合を考えてみましょう。電子の質量は、野球ボールと比べて比べ物にならないほど小さいため、たとえ高速で運動していても、その運動量は野球ボールに比べてはるかに小さくなります。

この場合、波長を計算する式では、プランク定数という小さな値を、比較的(野球ボールよりは)小さな運動量で割ることになります。その結果、電子の物質波の波長は、原子の大きさや、電子顕微鏡といったミクロな世界を観測できる装置の分解能と同程度か、それよりも長くなることがあります。

波長が観測できるスケールと同程度になると、波特有の現象、例えば二重スリット実験で見られたような干渉や回折といった振る舞いがはっきりと現れるようになります。これが、ミクロな粒子が波としての性質を強く示す理由です。

まとめ:スケールが鍵を握る

このように、身の回りの大きな物体が波に見えないのは、それに付随する物質波の波長が、私たちの日常的なスケールや観測能力と比べて圧倒的に短すぎるためです。この波長の長さを決定づけている根本的な要因の一つが、量子世界の普遍的なルールであるプランク定数の「小ささ」なのです。

プランク定数が非常に小さいため、運動量が少しでも大きくなると、波長は瞬く間に日常的なスケールからかけ離れた短さになってしまいます。逆に、運動量が非常に小さいミクロな世界でのみ、波長が比較的長くなり、波動性として観測できるようになるのです。

量子力学の不思議な現象が、なぜ私たちの日常では当たり前のように起こらないのか。その背景には、プランク定数という小さな定数が定める、波長のスケールという重要な要素があることを理解いただけたなら幸いです。量子世界と私たちの世界は、このようにスケールによって現象の見え方が大きく異なるのです。